写真と動画と時間軸
こんにちは、komichiです*。
いつもブログでは細々と自分の思いを綴ったりしていますが、
今日も細々語らせてください。
先日、濱田英明さんの個展を見に行きました。
東急東横線祐天寺駅から徒歩6分のSTUDIO OSK。
「時間の面影」という個展。
「時間は存在しない」と仮定したときに、繰り広げられる思考についての実験。
その実験を、写真と動画で表現したものでした。
濱田さんの表現力と、ご一緒されてたodolの森山さんが作られた「音」が見事に調和していて素晴らしかった。
内容は、実験とおっしゃっているだけあって、
撮影者の感性を受け取る・味わうような写真展とは違い、
見る人にがっつり思考させるような表現で、
人によって感じること・心に残ること・響くことが全然違ってくるだろうな、と。
私も、私なりに「時間」について思考してきました。
もともと、私は「時間はない」と思っています。
在るのは「その瞬間」だけ、それが連続しているだけ。
その連続を「時間」という概念で分かりやすく表現しているだけ。
つまり、「過去」というのは、「その瞬間」が「その瞬間があった」という事実に変わったということ。
存在していたという事実ができ上がった瞬間、それは、残せば簡単に取り出せるものになる。
また、「未来」も「すべては必然である」と考えると、すでに存在するものである。
(「すべては必然である」と思うけど、今の私はまだ未来についての感覚は掴みきれてなくて、それを可視化することもできない)
ふだん過ごしている中で、いちいちそんなことを考えながら生きているわけではないし、
「時間」という概念や言葉を使って生活をしてはいるけれど、
じゃあ、どんなふうに考えていますか?と問われると、こんなふうに思っています。
私の「時間」の解釈はこんな感じで、ここまではもともと思考済みの部分。
それと、濱田さんの考察を踏まえて、改めて、
写真は「その瞬間」を像で残すもので、そこに「時間」という概念は付帯されていない。
一方、動画は、瞬間の像を繋げて連続させたもの。それは「時間」という概念で制御される。
だな、と。
そして、今回の個展をみて、新たな発見がありました。
私は、自分が残すなら断然「写真」派で、
それは「時間」という概念が情報として付帯されていない分、
見た時の広がりが無限であるから。
写真があれば、いつだってその時に立ち返ることができる。
時間を超えてその時を感じることができる。
「動画」だと、時間の情報が付帯されている分、
その時に立ち返るというよりも、その時間を空間の外から眺めるような感覚になる。
だから、その時その瞬間の空間に入り込める「写真」の方が、断然好みだと思っていました。
だけど、今回の濱田さんの表現を拝見して、時間で制御されている方が引き立つものもあるのだと気付けました。
記録として残されたものではない、物語のある映画やドラマとも違う、映像作品。表現としての動画。
詳しくは実際に個展に足を運んで見てきてもらえるといいかと思いますが、
同じシーンでも、写真と動画でこんなにも表現できることが違うのかと、
頭で理解するのではなく、感覚で直接理解できたことが本当によかった。
本当に素晴らしい個展でした。
なんでこれが無料なのか、疑問。
でも、こうして定期的に自分以外の表現者の発信を見る機会はとっても大切ですね。
これからも、隙間を縫って月に1回くらいはこういう機会をもっていきたいと思いました。
せっかくきた祐天寺。最後はパンとコーヒーで締め。
まとまりのないブログですが、最後までお読みくださり、ありがとうございました*。